青岳尼の恋Ⅱ
鎌倉市に隣接する横浜市金沢区の図書館で、勉強に疲れてふと目を上げて周りを見渡すと、横の書棚に「太平寺」という文字が見えました。あれ、あの太平寺かな。席を立って本を手に取ってみます。書名は『太平寺滅亡ーー鎌倉尼五山秘話』とあり、目次を開くと青岳尼という文字が何カ所かにありました。となればしかたない、勉強をほったらかして、立ち読みです。
著者は三山進、昭和四年生まれの美術史家(佐藤さんと同世代ですね)。大学生の頃に、当時住んでいた鎌倉を散歩していて目にとまった道端の石碑が太平寺廃跡の道標で、そこに記された青岳尼のエピソードに興味を覚え、その後の人生で少しずつ調べた結果をまとめたという本だった。昭和五十四年、有隣堂刊、有隣新書。
調べた結果、とは言っても、残された史料は乏しく、しかも相互に矛盾していて、そして室町時代に引き続き戦国時代も敵味方入り交じり入れ替わりで複雑怪奇。借り出してきて自宅で読んでもアタマに入らないけど、要約するとこんな感じです。
まず時代背景。ウィキペディアを頼りに要約します。
青岳尼は足利義明の娘。父義明は、室町幕府を開いた足利尊氏の四男で鎌倉公方となった足利基氏の子孫で、下総国小弓で勢力を築いて小弓公方と呼ばれた武将。小田原の後北条氏と戦って討ち死にした。
一方、里見義弘は安房国の武将里見義堯の嫡男で、父義堯は、青岳尼の父義明が破れることになる国府台合戦(第一次)を彼と一緒に戦った。つまり当時は同じ陣営に属していたことになる。そしてその戦いの結果、後北条氏の勢力は大きく広がり、鎌倉もその一部となった。
そして著者の推測。
戦国の動乱期、義明と義堯の同盟を固めるために、婚姻による結びつきが必要だった。同盟を結んだ天文六年に、義堯の息子義弘は十二才、義明の娘青岳尼はおそらく数才の幼女、ちょうど良いと婚約をさせたのではないか、と。現代ではあり得ない婚約だが、豊臣秀頼は十一才のときに、家康の娘、七才の千姫と結婚をしているのだ。こちらも婚約でなく、結婚だった可能性だってなくはない。
そして後北条と戦って、敗戦。
青岳尼の住持することになる太平寺は後北条の支配下の鎌倉にある、つまり鎌倉では青岳尼は敵方のお姫様だ、そして妹も同じ鎌倉の東慶寺の尼となっている、とすると、寺を住持したとは言っても、じっさいは「父の敗死後間もなく、尼になることを条件に北条氏側の手に移されたのではないか」「その際、頼純(注: 足利家遺児‐残された跡取り*1)の助命と引きかえに二人が鎌倉へ送られた可能性もある」(同書p.67、68)。
小弓の地で父とともに勢力を取り戻していった義弘は弘治二年、上杉との盟約を成立させ、相模国の城ヶ島から鎌倉まで攻め込んだ。そして、太平寺廃跡の道標の言う、「里見氏鎌倉を鹵略せる時、住持青岳尼を奪いて房州に去りてより遂に頽破せり」(原文:漢字カタカナ混じり歴史的仮名遣い)。義弘は青岳尼を連れて房州に戻ったのである。
さてそこで、青岳尼はほんとうに強奪されたのか、というところ。そこに著者の「推測というよりも妄想の類いに近くなる」(p.102)思いが生まれる。
『房総里見誌』という軍記物には、義弘は「小弓義明公の御女を御奥方として、御中甚だ睦まじく」という記述があるそうだ(p.63)。
「青岳尼もまた、一時は嫁ぐことが約束されていた里見義弘に対し、一貫してひたむきな慕情をいだきつづけたのではなかろうか」「鎌倉で生きてゆくかぎり、父を殺した仇敵北条氏に監視されていなければならない。聖域とはいえ太平寺は、足利義明の女にとって檻と変わりはないのである――」「この事実にめざめて以後、青岳尼は小弓城での日々をひとしおなつかしんだに違いない。そして、思い出の中で義弘の姿がいっそう浄化され、思慕の情をつのらせていったのではないか」(p.101、102)
著者は本職の美術史、彫刻作品の様式、巧拙についての知見も駆り出して考察、いや妄想を続けていく――
どうしても幼なじみ同士の恋ということにしたい、この強い思いに、なんとなく佐藤さとるさんと共通するところ、ありますよね。この世代には何か範型、理想の姿のようなものがあるのでしょうか。
なんて、そんなことを書いてる私も同じですかね。佐藤さんたちの子の世代ですが。
印象的なことを教わりました。
妹姫の住持している東慶寺は縁切り寺として有名な尼寺で、夫と別れたい女性が駆け込んで離縁を認めさせることの認められた施設でした(映画『駆け込み女と駆け出し男』で描かれましたね)。そしてこの東慶寺にも青岳尼の太平寺にも、開山の理由として、離縁して出家したいのに夫の許しが得られず苦しんでいる女人を救うこと、を挙げる伝承があるということ。当時、出家したいという願いを叶えるために自らの顔を焼いた美女、なんて伝説(実話?)もいろいろありました。けれどもこの青岳尼の人生は、その逆方向を向いているように見える、そのことです。
青岳尼は出家遁世の平安ではなく、この現世を生きる生身の女性としての幸福を選んだ。そう理解したい思いが、この三山さんにも、たぶん佐藤さんにもあるんですね。
ちなみに、鎌倉にある臨済宗円覚寺派大本山円覚寺の舎利殿は国宝ですが、もとは太平寺にあった仏殿を移築したものだと判明しています。毎年何度か公開されますので、そのときに円覚寺に参拝すれば、青岳尼のお勤めした建物を実際に見ることが出来ます(堂内には入れず、門を入って仏殿を間近に拝観するかたち)。ことし2026年なら、正月と5月と、10月31日から11月2日に公開です。
*1 里見家の嫡男と間違えて書いていたのを訂正しました。とんでもないミスですね。ごめんなさい。
青岳尼の恋(『天狗童子』ーネタバレあります)
九郎丸と茶阿弥はなにせ天狗ですからこれはまるでファンタジーで、佐藤さんの空想の産物だろうと思ってしまいますが、もしかしたらモデルがあったのかもしれません。この時代の鎌倉に太平寺という尼寺があったそうで、ウィキペディアのその項目には、こんな記事が見られます。
「『新編相模国風土記稿』によると足利持氏の娘昌泰道安、足利成氏の娘昌全義天、足利義明の娘青岳尼などが住職を務めた。/
1556年(弘治元年)、安房の里見義弘が鎌倉を攻めた際、太平寺も攻撃を受け、青岳尼と本尊の木造聖観音菩薩立像が奪われた。青岳尼は後に還俗し里見義弘の正室となった。/
この後、太平寺は廃寺となる。青岳尼が安房へ移った事を北条氏康が「不快なるお企て」と批判的にかいた文書が残っている事から、青岳尼については奪われたのではなく、義弘と恋仲で自ら出奔したとの説もある。」
ある書物にはこう書かれています。(小和田哲男監修『もっと知りたい神奈川県の歴史』洋泉社刊)
足利義昭というのは「三代・古河公方の足利政氏の子」「小弓公方と呼ばれ、復権を画策していた」が「国府台合戦であえなく討ち死にした」「青岳尼はその遺児である」「安房国(千葉県南部)などの戦国大名・里見義堯の庇護を受け、のちに出家して鎌倉の太平寺に入寺した」
「弘治二年(一五五六)、里見義弘(義堯の子息)は後北条氏の支配領域である鎌倉を攻撃した」「義弘は太平寺を訪れると、自分の妻になるように説得した」「もともと義弘は、青岳尼のことを知っていた。幼なじみだったのである」「説得に応じた青岳尼は、還俗して義弘ととともに上総国佐貫城(千葉県富津市)に向かった。そして、青岳尼は義弘の正室となったのである。このとき、義弘は三十一歳で、青岳尼は二十二、三歳くらいであったと考えられている」
似てますよね、九郎丸と茶阿弥の恋に。足利のお姫様が鎌倉の尼寺から東京湾(江戸湾)を渡って、房総で武家となった幼馴染と結ばれるのです。
物語で九郎丸は三浦氏の高教の子ですが、三浦氏が伊勢の後北条氏に破れたあと、安房国を治める里見氏配下の武将・正木高暁となって、「およそ十年後」の鎌倉襲撃の際に「愛堂尼という若い尼どの」を連れ帰った。愛堂尼は茶阿弥です。その茶阿弥は堀越公方足利茶々丸の娘でした。
一方、史実の青岳尼は古河公方系列の小弓公方、足利義明の娘です。古河公方は、茶阿弥の父である茶々丸が継ごうとした堀越公方と同じく(対立していましたが)、室町幕府の重職である鎌倉公方の後身のひとつで、その遺した姫様が青岳尼です。青岳尼については室町時代らしく諸説あってその人生を描きづらいのですが、ウィキで調べるとこんな風に書かれていました。
「里見義弘は彼女に恋焦がれる余り、太平寺にいた青岳尼を訪れて還俗して自分の妻になるように勧める。彼女もこれに応じて江戸湾を渡り、義弘の居城のあった上総国佐貫城に入って間もなくその正室となった」「その後の詳細は不明である。法号は智光院殿洪嶽梵長大姉。伝承によれば病弱であり永禄年間の早い段階に病死した」
たぶん、佐藤さんは青岳尼の人生を偲んで、この作品『本朝奇談天狗童子』を書いたのではないでしょうか。横須賀生まれ横浜住まいの佐藤さんにとって鎌倉は身近な場所ですから、きっと太平寺の歴史もご存じだったのでしょう。
義弘と青岳尼が幼なじみだったというのは、徳川家康がじつは織田信長と幼なじみだったという否定しきれない物語を思い返せば想像しやすい。家康や青学尼のように親を亡くして他家で暮らす若者にも青春はあるんです、すくなくとも日本の歴史では。
でも、ざっと調べた程度では、この青岳尼の人生はよく分かりません。もっと知りたくなりますね。中央政府が弱体化して地方の権力が政略戦略で血みどろの戦いを繰り広げている中で、親を、家を、失ったお姫様です。どんな思いで毎日を暮らしていたんでしょうか。(20260223修正)